いわゆる「自信過剰な人」は、結構多いようだ。どの職場においても、人事評価の時期になると管理職や経営陣から、「あいつは、なんでこんなに自信があるんだ。何もしていないのに」であるとか、「イマイチな人ほど、自己評価が高い」というような話が聞こえてくる。
だが、自信がある事自体は特に悪いことではない。「自信を持て」であるとか、「自分を信じるんだ」といった言葉は頻繁に用いられており、「相手から好印象を持たれる話し方」のようなノウハウ本には、「自信をもつこと」と書かれていない物を探すほうが難しい。
だから、「自信がある人」が非難されるのは、「自信過剰な場合」、すなわち「その自信に根拠がない場合」だ。
具体的には、
「実績を作っていないのに、自信だけはある」
「努力をしていないのに、自信だけはある」
といったような場合だ。
さて、このような人物をどう取り扱うか。
多くの場合、自信が問題となる状況は、人事評価と高い自己評価の間に乖離がある場合、もしくは、自分で進んで勉強しない場合など、評価者が「もっと謙虚になりなさい」と諭したい状況が多いだろう。
しかし、結論から言うと、「謙虚になれ」と諭しても、謙虚にはなれない。
「日本人は謙虚さを重んじる」と言われることが多いが、これは対外的なコミュニケーションを取る時の技術に過ぎず、本心は非常にプライドが高い人々だ。NHKの調査でも、半数以上の人々が、「日本人は他国に比べて極めて優れた素質を持っている」と考えている。
また、別の調査でも「自分は中流」と考える人が75%以上いることを見ると、「私なんて、大したことありません」という人の多くは、本心ではそう思っていないと見ていいだろう。
だから、「本当に謙虚な人など、ほとんどいない」というのが、現実であり、むしろ、そのほうが納得できる。なぜなら、謙虚さとは、「本物の自信」から生まれるものだからだ。それ相応の努力を行い、実績を積み上げた人だけが、心から「私なんてまだまだです」と言えるのだ。
だから、「本当に謙虚な人々」(要するに実績があり、努力もし、真の自信のある人々)は、根拠のない「自信過剰」を責めてはいけない。自信過剰はその人の精一杯の自己防衛であり、拠り所なのだ。否定すればするほど、対立は深まる。
上位者は評価する際に「根拠の無い自信に溢れている人」を見ると、つい諭したくなるが、そんな時間の無駄はやめて、淡々と「努力の量」と「実績」で評価をすればよい。時には上位者の言葉に「私の自信は根拠のないものだったのですね」とその人が感銘を受けて改心するかもしれないが、大体は翌日になればケロッと忘れている。
根拠の無い自信であることは、本人も遅かれ早かれ気づく。ただ、それには時間がかかるし、自分で気づく以外にそれを克服する方法はない。「私はその人の自信過剰をを変えられる」なんて上位者が思う事自体が、自信過剰だということだ。