動機付けに関する書籍は数多い。だが、その多くは「恐怖」または「快楽」といったもので人を操作しようとするような小手先のテクニックを紹介するものがほとんどである。
口当たりは良いが、殆どの場合それは相手に看破され、軽蔑されるものがほとんどである。それではいけない。
動機付けについてはまず大原則がある。ドラッカーはこう述べる。
「人は、働くか働かないかについて、本人が完全な支配力を持っている。独裁者はしばしばこのことを忘れる。銃を持ってしても本当の仕事を行わせることは出来ない」
人は、「その人がやりたいことしかしない」という明確な事実だ。
そして、もう一つの大原則が、
「人の「啓発」は、他の資源のように外部からの力によって行われるものではない。(中略)人の啓発とは成長である。成長は常に内から外に行われる。したがって、仕事は人の成長を促すとともに、その方向づけを行うべきものである。」
人は、研修や説教や、会社から与えられた方針によって啓発されるものではないということだ。
「大企業の方が成長できるなんて完全にウソ」という記事が注目を集めているが、これは半分あたっているが、半分的はずれである。研修では人は成長しない。これはあたっているが、「大企業」と「中小企業」との比較自体に意味は無い。成長を決めるのは、「仕事を行う自分の心の持ちよう」だけであるからだ。
そして、動機付けに対してドラッカーはこう促す。
1.働く者にとって、仕事は常に挑戦でなければならない。
平均的労働者のための平均的作業量を定めてはならない。それらは常に個別である。一律の目標ほど、人のやる気を削ぐものはない。目標は自ら決めるものである。
2.企業は働く人にとって何を求めなければならないかを正確に理解する。
標準的な答えは「正当な一日の賃金に対する正当な一日の労働」という決まり文句だが、この言葉は誤っている。なぜなら、この言葉は働くものに対しあまりにも少ししか要求せず、しかもまちがったものを要求しているからである。
企業が働く人たちに対して第一に要求すべきは、企業の目標に進んで貢献することである。法の定めるように、人は商取引の材料ではない。労働は人の働きであるがゆえに、一日の正当な労働なるものは決して得ることが出来ない。なぜならば、それは黙従を意味するからである。
そして、黙従こそ人が決して行うことの出来ないものである。働く人から何かを得ようとすれば、正当な労働などよりも遥かに多くを求めることが必要である。正当さを超えて、貢献を求めることが必要である。貢献を求めることで、初めて労働者に責任を持たせることができる。
人が物を生み出す力は、主としてその要求の水準によって決まる。多くを要求せよ。
3.変化を進んで受け入れることを要求する
企業にとってイノベーションは不可欠の機能である。しかし、そのためには人も変わらなくてはいけない。そのために必要なことは「新しいものを学ぶ」ために、「古くなった知識や経験」を捨てることが必要である。
そのためには体系的な教育ブログラムによって、絶えず知識の更新を行う必要がある。新しいことに常に触れさせよ。古い知識に固執しないようにさせよ。
4.従業員が会社に求めるものを知る必要がある
従業員は経済的な報酬を超えて、個として、人として、市民として見返りを要求する。つまり、現代社会の基板となっている約束の実現、とくに自らの進歩と昇進への平等な機会という正義の実現を求める。
さらには、仕事の意義と真摯さを求める。すなわち、仕事ぶりについての高い水準、仕事の組織とマネジメントに係る能力についての高い基準、優れた仕事に関する明らかな関心などである。
礼儀や関心、真摯さは最低要件である。
5.従業員は経済的な安定を求める
企業は賃金負担が柔軟であることを必要とするが、人は景気に関係なく働く意思さえあれば確実かつ安定した収入を得られることを求める。また、企業にとって利益は自らの存立のための必要条件であるが、働く人にとって利益は誰か他のものの収入である(社長や株主などの)。
彼らにとって、利益が雇用や生計や収入を規定するなどという考えは、支配への屈服を意味する。たとえ搾取とまでは行かなくても、専制を意味する。
多かれ少なかれ、働くものは「利益」に対する反感を持つ。したがって、働くものへ「利益」というもんは彼らの利害にとって必要不可欠なものとして受け入れてもらえるようにするために努力しなければならない。
いずれもよく知られた話であるが、きちんと行う企業は極めて少ない。
小手先のテクニック等よりも、原則に立ち返ることが肝要だ。