「愛社精神」は社員ひとりひとりの中にとどまっている限りは良いものである。所属する組織への愛着や帰属意識を持つことは特に珍しいことでもない。
ただし、「愛社精神」に、経営者や管理職が関わると、少し厄介なことになる。理由は2つある。
1つ目。愛社精神は愛国精神と同じく、他者が無理やり涵養することはできない。よって、経営者などが関わると「愛社精神を強制する」という事態になりかねない。
これは当たり前の話であるが、「愛」は、自発的なものであり、決して他人から押し付けられて持つものではないからだ。例えば、「あの人が愛せ、というから愛しています」という言葉からは、なんの愛も感じない人がほとんどだろう。
だから、愛社精神というのは、教育したり、鼓舞したりしても喚起することはできない。獲得できるのは、せいぜい盲信と冷笑である。
愛社精神を育てたいなら、そんなことをせずとも、企業が社員に誇りを持てる仕事と社会的地位、高い報酬を支払えば、「会社が好きである」という人は勝手に育つ。
本質的には「愛社精神を教育する」といったことに時間を割く必要はない。 愛してほしくば、自分が愛されるに足る人にならなければならないのと一緒で、自社が素晴らしい会社になるほかはない。
2つ目、経営者などが「愛社精神」を強調することは、強い排他性を伴う可能性があるということだ。
「愛」という感情は聞こえは良いが、受け入れられなかったり、他者の賛同を得られなかったりすると、それは容易に憎悪に転化する。
「なぜ、俺はこんなに会社を愛しているのに、会社は俺を愛してくれないのか」
「あいつは、俺と同じように会社を愛していない。許せない。」
個人レベルではそのような感情を持つ人間が存在するのは仕方ないが、経営者が「愛社精神」を養護すると、彼らに「愛社精神を持たない人」を攻撃する口実を与えることになる。
「あいつは愛社精神に欠けていますよ」
「彼は会社がそれほど好きではないですよ」
そう発現することに対して、「お墨付き」を与えてしまうのが「愛社精神」を喚起するデメリットだ。私はそのように経営者に告げ口をする取り巻きと、それを良しとする経営者を数多くみた。
結果として行き着く先は、統制と全体主義、そして組織の硬直化である。
「会社とは全体主義的であるべきである」
「会社はカルトであるべきである」
そう信じる経営者も少なからずいるが、組織や団体はオープンであるほうが良い人材の獲得という点において圧倒的に強い。
古代ギリシャ人はギリシャで生まれた人間にしか、市民権を与えなかった。
古代ローマ人は、働きぶりによって市民権をだれにでも与えた。
このちがいが、世界帝国を作れたか否かを分けた、と指摘する人物は多い。
また、アメリカ人はアメリカの強さの理由の一つは、「移民にある」としている。
アメリカにひっきりなしに押し寄せる移民の波は、アメリカの性格形成に深く影響した。母国を去って新しい国に来るという行為には、勇気と柔軟性が必要である。
アメリカ人は、リスク冒して新しいものに挑戦する意志と、独立独歩で楽観的な性格を持つことで定評がある。
(アメリカ大使館)
強い排他性は、閉鎖的な文化を生み出し、新しいものを生み出す風土を殺す。一方で、企業がなすべきこととは新しいものを生み出すことであり、集団を維持することではない。
社員に会社を好きになってもらうことは構わない。が、経営者や管理職がそれを強制することには注意を要する。
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(Photo:Gage Skidmore)