民主主義は明らかに機能していない。殆どの人は民主主義の根幹である「投票」に対して無関心である。門真市の市長選挙は投票率が28%だったそうだ。総務省の政府統計を見ても分かる通り、普通選挙が始まって以来、投票率は年々落ちている。要するに、一部の人以外、政治に感心がないのだ。
ネット選挙が解禁されたが、投票率はあまり上がらないと個人的には予想している。もちろん、最初は物珍しさから少し上がるだろうが、暫く経てば、皆飽きて元通りになる。
なぜこのようなことになるのか。よく言われる話が、「自分の一票では何も出来ない」だが、これは本質とは少し違う。自分の一票であっても意見を同じくする人が集まれば大きな力になることくらい、だれでもわかる。そうではなく、「意見を同じくする人が誰なのか」がわからないのである。
国には解決しなければならない事が山ほどある。年金、教育、格差、貿易、防衛・・・、ハッキリ言って、会社で自分の隣に座っている人でさえ、ほとんどの課題に対して同じ意見であることはない。
それは政治家に対しても言える。「私」と意見を等しくする政治家はいないのだ。だから、「XXをぶっ壊せ」「円安誘導」というようなわかりやすいプロパガンダを掲げる政治家が支持を集める。
だれもが、自分の課題と、国の課題を同一視出来ない時代が、多元社会である現代だ。
だから皆、本当はこう思っている。面倒なこと、儲からないことは国に押し付けろ。
「生活保護?格差? 知らないね。国が責任持ってやってくれ。」
「年金?自分が貰えればなんでもいいよ。 え?もらえない?では払いたくないね。」
「税金? やめてくれ。あ、でも自分が払わなくて済むなら、バンバン取れば?」
二世議員の増加が示すように、優秀な人々はもはや政治家になろうとはしない。その代わり、大企業の中枢に入ろうとする。もしくは、自分で企業を作る。そのほうが自由に意思決定ができるからだ。
政府は水道局と一緒だ。ないと困る。しかし、水道料金である税金が上がるのはもっと困る、もっと言えば水道局が出しゃばるのは困る。しかも、水道局の仕事は優秀な人々を引き付けるには物足りない。
「問題を起こさず、何事も成さず、地道に運営してくれ」が政治への要望だ。
従って、今後ますます、政府は小さくなる。そして、企業と非政府組織が投票によらない権力を行使する。その評価は消費者と、サービスの受け手、そしてそこで働く従業員が担う。これは、投票と政党によらない、間接的な民主主義である。
国は主として問題の調停にあたり、司法権が大きくなる。行政府はいずれ、大きな市役所になり、決められた手続きを滞り無く済ませるだけの組織となる。また、警察や消防はアウトソーシングされ、人々は場合によっては個別の契約によって自己防衛を行うようになる。
立法府はあまりにも複雑化した社会に対応できず、法整備は常に遅れる。したがって、急速にその地位を落とし、国会は単なるお茶の間エンターテインメントと化す。政治家は「名誉職」として残る。
だが、皮肉なことに、政府は「問題の調停」に機能を特化することで人々の尊敬を取り戻す。もはや「大きな政府」は影も形もない。存在するのは企業や非政府組織によるイノベーションと、それによる社会的な摩擦である。
しかし、法整備が間に合わないので、摩擦を解決するための調停は政府に委ねられる。こうして個別の問題を個別に処理をするための機関が出現する。
もはや統治する機関である「ガバメント」は存在しない。「統治」に変わり、「調停」がその機関の役割として、学校で教えられるようになる。「投票」も重要ではなくなる。サービスを受け、商品を買う事が、投票行動となる。そういう機関を、人はなんと呼ぶだろう。「政府」と呼ばれるのだろうか。
いや、それは政府でなく、「総合調停機構」とも言っておくべきか。
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