社会人になると、「本を読め」と言われる。あなたも言われたことがあるだろう。私が過去に在籍していた会社でも、本をたくさん読むことが推奨されていた。
しかし、本が好きな人は良いが、嫌いな人は「一体何のために?」と疑問を持たない人はいないだろう。
それに対しての返答は多くの場合、「社会人としての常識」「勉強せよ」「知識をつけるため」などと、要するに「仕事に役立つから読め」という趣旨に違いない。
もちろん、「仕事に役立つから読む」というのは正しい。まっとうな説得である。
しかし、子供に「将来良い仕事につくために勉強しろ」と言うことと同じく、その言葉はほとんど効果が無い。だから、「役立つから本をたくさん読むようになった」という人を私は実際にはあまり知らない。
私の周りで本が好きな人はほぼ例外なく、「面白いから読む」という人々である。テレビが、ゲームが、旅行が楽しいのと同じく、「本を読むのが最高に楽しいから」という理由で読む人が圧倒的多数である。
だいたい、「役に立つから」という理由で読んでも長続きしないのだ。
子供に対しても同じである。「知能の発達に役に立つから」という理由で本を親が読ませようとすれば、かえって子供は本が嫌いになる。
本当に面白い本ならば、子供に読ませようとする努力は不要である。子供自ら、「これ読んで」と持ってくるだろう。そういう本を「用意する」のが、親の役割だ。
したがって、部下に本を読ませたいなら、もうこれはひたすら「面白い本」を紹介するより他はない。文豪と呼ばれる夏目漱石や芥川龍之介、太宰治などの作品がこれほど読まれているのは、文学として優れているかどうかはどうでもよく、「知的な楽しみ」を与えてくれるからだ。これは、文学だけではなくビジネス書も同じである。
しかし、「面白い本」は、絶対的なものではない。
例えば、私が初めてピーター・ドラッカーの著作と出会ったのは学生の時である。今は学者をやっている友人から「プロフェッショナルの条件」を勧めてもらったのだが、当時は数ページ読んだだけで眠くなった。書いてあることが全くわからないのだ。当時の私にとって、その本はトイレットペーパー代わりにもならないくだらない本であった。
しかし、部下を持つようになってピーター・ドラッカーを読み返した時に、私は「まさに、この本は私のために書かれたのだ」と確信するに至った。その本には、まさに今私が直面している課題や、検討しなければならない事項、悩みについて書かれていた。
この経験から、私は、「本には、読むべき時期が存在する」と知るに至った。
実際のところ、長く読み継がれる「名著」と呼ばれる本は、やはりどれも素晴らしい。面白く無いのは、自分がまだ成熟に至っていないから、あるいは知るべきことを知らないからだ。
私にドラッカーを紹介してくれた友人はこういっていた。
「本なんて、本当は読む必要がないんだ、なぜって、読んでわからない本は読んでも仕方ないし、読んですぐに分かることに価値はない。すでに知っていることが書いてあったら、時間の無駄だ」
ではなぜ本を読むのか。
「楽しいから」
に決まっている。