どんな会社であれ、運転資金がなければ会社は倒産してしまう。企業は多くの資本を必要とする。
したがって、かつての工業化の夜明けの時代、世界はお金をもつ資本家と、持たない労働者階級に分かれ、階級闘争が発生すると見られていた。お金を持つ資本家はますます企業により強大になり、労働者は搾取され続けるという構図となる。
だが、実際にはそのようなことは起きなかった。
なぜ、階級闘争は起きなかったのか。
それは実際には企業によって多くの人の生活水準が向上したからだ。どんな劣悪な工場であっても、その当時の農村の困窮の度合いからすればはるかにマシだった。
ドラッカーによれば、
”ヨーロッパの工業化された都市部では、幼児死亡率が急速に低下し、平均寿命は急速に伸び、人口は急速に増加した。”
人々は喜んで工業化を受けいれた。「技術」や「知識」は、人々の生産性を圧倒的に向上させ、皆が豊かな暮らしをできるように世の中を変えた。
しかし、現代では工業に従事する人の割合は急速に少なくなっている。いまでは工業に従事する人は全体の6分の1程度にすぎない、そしてますますそういった人は少なくなっている。代わりに台頭したのは、「サービス」「ソフトウェア」などの産業が代表する「脱工業化」である。
そして、「脱工業化」時代には大きな変化があった。
すなわち、大資本を投下する必要のある工業と異なり、サービス・ソフトウェアは大資本を必要としない。
したがって、資本たる「お金」はその地位を相対的に落とした。銀行、証券市場ではお金がダブつき、借り手、受け手を探してさまよっている。銀行は貸したくても貸せない。「なぜ低金利が続くのか?」に対する本質的答えは、「お金」が新しい産業を創りだすわけではない時代となったから、である。
では何が新しい産業を創りだすのか。
現代の「知識社会」においては、知識を持つ創造的な人々がそれを創りだす。お金は制約条件に過ぎず、重要性は低い。
「お金」と「知識」は地位が逆転した。
ただし、ここで言う「知識」とは、Web上にある「情報」ではない。Webをいくら見ても、「知識」とはならない。
情報を、現実の世界に適用させ、人々の豊かな暮らしに貢献するために必要なノウハウが、「知識」である。
「ニュースを見て、そこから新しい市場を生み出せる力」
「目の前のお客さんを見て、新しい何かを始める力」
これらが「知識」である。
知識を持つ人間はまだ稀である。また、知識を獲得する方法も、前人未到の分野である。
したがって、現代は「知識」を持つ人間が最も貴重な資源だ。すなわち、起業家、研究者、弁護士、アーティスト、技術者、作家などである。
企業はこういった人々に協力してもらわなければ、立ち行かない存在となってしまった。
たまたま単発の商品が当たったとしても、知識を持つ人がいなければそれらはすぐに陳腐化してしまう。企業は常に知識を更新し続けなければならない存在となってしまった。
だから、現代の企業は「知識を持つ人」を求める。多くの企業人が「勉強ができるだけじゃね・・・」というコメントを漏らすのは当然だ。
しかし、彼らは「お金」だけでは動かない。お金を出せる会社はたくさんあるが、自分の「知識」が活かせる職場は少ないからだ。
彼らを会社に引き止め、市場を作り出してもらうこと。これはお金を集めるよりもはるかに困難で、難しい。
「マネジメント」とは、本来、そのような目的をもつ技術なのである。
マネジメントの目的を「やる気のない人に、やる気を出させる技術」であったり、「目標を達成させる技術」と言うのは、マネジメントの一部に過ぎず、的外れである。