社会のあらゆる分野で「競争」が激化している。研究、事業、教育、金融など、競争が見られない世界は今や殆ど無い。
「競争」を嫌う人も多いが、競争による「豊かな社会」の恩恵は確実に一人一人が受け取っている。これほど安く食料が手に入るのも、海外に気軽に行けるのも、携帯電話を一人一人が持てるのも、「競争」のおかげであることに異論のある人はあまりいないだろう。
なぜなら、多くの場合、「競争」は生産性を向上させ、非効率を排除する。最も効率的な者が生き残り、社会に富をもたらすからである。
しかし、近年では競争は激化しているようにみえる。企業の平均寿命は短くなる一方だ。
”【会社の寿命】今や”寿命”はわずか5年(日経ビジネス)
1983年、弊誌は「会社の寿命(企業が繁栄を謳歌できる期間)は30年」と唱えた。
しかし、その後時代の変化はめざましい。グローバル化、ネットワーク化が進み、世界を舞台にした激烈な競争時代に入った。
もはや企業の寿命(盛期)は30年どころか、10年は確実に切ったと見られる。
前回は、総資産や売上高といった規模の大きさをベースに寿命を算出した。本特集では、時価総額というマーケットからの評価尺度をもとに会社の寿命を調べ、日本企業で約7年、米国企業で約5年という結果を得た。”
おそらく、企業の短命化にともない、労働者も流動化せざるを得なくなる。「一つの企業に定年まで」という人は既に貴重なのだ。
しかし、なぜこれほど競争が激化したのだろうか。
その理由についての分析はピーター・ドラッカーがその著作の中で行っている。
”知識社会は、われわれが知るいかなる社会よりも競争の激しい社会である。知識は普遍であり、成果をあげられないことの弁解ができなくなる。
恵まれない国というものがありえなくなる。あるのは無知な国だけである。このことは、あらゆる企業、組織、産業について言える。一人ひとりの人間についていえる。”
(イノベーターの条件)
つまり、競争の激化をもたらしたのは、「知識社会」である。
かつての社会は殆どの人が仕事も地位も、自分の親のあとを継いでいた。
しかし、今の社会で親と同じ仕事に付く人はほとんどいない。そのかわり、自ら知識を身につけ、専門家として組織に入り、そこで組織に成果をあげさせることが仕事となった。従って、「専門家」になれない人間は社会的な役割を失い、彷徨うことになる。
だが、「専門家」になるのは簡単なことではない。常に学習し、先端の知識を発掘し、現場で応用・実践しなければたちまち知識は陳腐化する。それゆえに、現代社会は立ち止まることが許されないのである。
これが、「超競争社会」の正体だ。
webにより、知識は容易くひろまる。そして知識が陳腐化するスピードも早くなる。われわれの子どもたちの世代では更にそれが加速しているだろう。
「無知な者」となりたくなければ、「新しい知識を獲得する力」、「新しい知識を創造できる力」を身につけなければならない。学校や教育機関は、その担い手となりえるのだろうか。