「人間は自由という刑罰に処されている」と言ったのは、かの高名なジャン・ポール・サルトルであるが、これは、現代人の究極の課題の一つだろう。
「どうやってその日その日を生き延びるか」が殆どの人にとっての人生の課題であった古代から近代にかけて、「自由という刑に処されている」などと言おうものなら、たちまち嘲笑の的になったであろうが、豊かになった現代においては、そうではないようだ。
哲学的な考察は専門家に任せておいていいと思うが、現代においては事態は複雑だ。先進国においては、「やりたいことがわからない」という人が増加の一途をたどり、深刻な社会問題を引き起こしているように見える。
「自分を探しに」海外を放浪する人もいれば、仕事のやりがいを求めて転職を繰り返す人もいる。突然働くことが嫌になってしまう人もいれば、「スキルを磨く」といって自己啓発に励む人もいる。
みんな、「自由という刑に処されている」のである。すなわち、人生の選択肢が多すぎる結果として、「これでいいのだろうか」という悩みから解放されないのだ。
普通に働いていたとしても例外ではない。自分から目的を持ち、モチベーションを高めようとすれば、「自分のやりたいこと」を見極める必要がある。だれも、理由無くして「ただ黙って働く」ことは耐えられない。
どうすればいいのだろうか。「自分の人生を引き受ける」「自分の人生を決定する」という大役を、どうやって果たせよいのか。
これは、「決定」というプロセスを考察する必要がある。
例を挙げよう、あなたが家を買うとする。「世田谷にある、3LDKのマンション、4,000万円」と、「鎌倉にある、一戸建て、部屋数が6、4,500万円」と、「赤坂のタワーマンション、2LDK、リビングは広い。5,000万円」どれがいいですか?と聞かれて、選べるだろうか?
おそらく、多くの人は「もっと情報をくれ」、「実際に見てみないとわからない」と言うだろう。そのとおりである。大事な決定には、より多くの情報を必要とするのが普通だ。
最善の選択を出来る保証はどこにもないが、少なくとも「適当に決めてしまった」という後悔はしたくない、従って、あれこれ情報を元に検討するはずである。
その結果、上のどれかの家を買うかもしれないし、当初の選択肢には無かった家を買うかもしれない。今は決めない、家を買わないという選択をするかもしれない。
ただ、注意して欲しい、家を買うことができるのは、普通のサラリーマンであれば、銀行がお金を貸してくれる時だけだ。家を買う、という選択ができる時間は限られている。選択には、常にタイムリミットがある。
では、「自分のやりたいこと」に対する決定にはどのような情報が必要か。これには大きく3つあると思う。
- 自分の取りうる選択肢についての情報
- 自分の希望についての情報
- タイムリミットについての情報
まず1だ。「人には無限の可能性」があるのかもしれないが、自分の取りうる選択肢については、ほとんどの場合制限がある。30代なかばからプロ野球選手にはなれない。「自分の取りうる選択肢」は、現実的に考える必要がある。
この情報を取得するのに有効な活動は、なんといっても「読書」や「各種メディア」、加えて「知り合いの話」などの外部情報だ。読書を数多くする人は、それだけで自分の取りうる選択肢についての情報が多くなる。
つぎに2だ。人は、思うほど自分の希望を知らない。何せ、昼ごはんですら、「何を食べようか、決められない。なんでもいいや、そうだ、近くの定食屋でいいか。」と思ってしまうくらいなのだ。自分の希望を明確にするためにはもう少し自分について深く知る必要がある。
この情報を取得するのに有効な活動は、日記などの文章を書くことだ。文を書くことは、自分の好き嫌い、考え方、価値観などをまとめるのに非常に有効な手段であり、その効果に疑いの余地はない。
つぎに3だ。「自分がいつまでに決定を下さなければいけないのか」という情報は、非常に得にくい。目の前のことをひたすらやっていて、気づいたら老人になっていた、という話はよくある話であり、決して他人事ではない。
思うに、タイムリミットに正解はない。従って有効な活動は、「正解を求めず、とりあえず決定の期限を仮決めしておく」という事だと思う。要は意図的に緊急度を上げなければ、辛い決定など出来ないということだ。
要は、「決定する」ということを「目の前にある緊急でやらなければいけないこと」の一部に組み込んでしまうことが良いのではないか。
ということで、書き終えてみたら、「本を読め」「日記をつけろ」「期限を決めろ」という、自己啓発本におきまりの話になり、なんともつまらない結果になった。駄文で、申し訳ない。