植木等の曲にドント節というものがある。1962年に爆発的にヒットした曲で、作詞は青島幸男だ。歌詞はこうである。
”サラリーマンは気楽な稼業と きたもんだ
二日酔いでも 寝ぼけていても
タイムレコーダー ガチャンと押せばどうにか格好が つくものさ
チョッコラ チョイとパアにはなりゃしねェ アッソレ”
それから約半世紀が経ち、サラリーマンは変わったのだろうか?
1962年当時、日本は高度経済成長期の只中、20年近くにわたって続いた好景気の真っ最中であった。
好景気時には「サラリーマン」は確かに気楽な家業である。歌詞にもあるように、「タイムレコーダー」をがちゃんと押す行為さえすれば、すなわち「時間を提供すれば、対価がもらえる」わけである。
もちろん個々の会社の事情はあろうが、それでも業績に汲々とせずに済む時代というのは、とても気楽だったのだろう。
しかし50年がたった今、「サラリーマン」は減り続けている。非正規雇用は全体の4割を占めるに至った。
また、雇用を維持するため、正規雇用者給与の水準は下がり続けている。とてもではないが、気楽な稼業ではない。
こんな時代にあっては、子供を「公務員」にしたいという親がますます増えている。何時の世も、多くの人は「気楽な稼業」を求めるのだろう。そして今「気楽な稼業」は公務員しか無いというわけだ。
「公務員」は良い仕事だろうし、目指すことは挑戦しがいのあることだ。しかし、残念ながら「公務員ばかりの国」は決して豊かにはならない。
少し前に「ギリシャ危機」があったが、ギリシャの公務員比率は全体の25%、汚職も横行しており、恵まれた公務員の待遇は批判の対象となっている。
「リストラがない」であるとか、「安定している」という理由で「気楽な稼業」を狙う大学生やその両親は、日本の未来をどう考えているのだろうか。
「王は一人で王になるわけではない」でも紹介した、「賭博黙示録カイジ」というマンガがある。
実は、「王は一人で王になるわけではない」という台詞の前には、下の一言がある。
”無論金はある・・・湯水のようにあるがわしは助けん・・・。 なぜだかわかるか・・・・・?
実にここ ここが肝心・・・! ここだっ・・・!まさに、ここっ・・!
見ての通りだ 見ての通り・・・ 折れた足をいじられると、彼は痛いが、わしは痛まない・・・・・カイジくんも痛くはなかろう。
ククク・・・・・・この一事だ・・・・・この一事が真実・・・・・・ ここをどこまで理解しているかで人の成否は分かれる・・・・・!
いいんだよ・・・・ 他人がどう苦しもうとまったく問題ない・・・・ 唯一問題なのは自分の幸福だけ
人は目の前のわずかな金のために 相当なことに耐えられるのだ。
その特性を金持ちは利用し、 生涯かしずかれ安楽に暮らす”
成果に関係なく給料が出る、安定した仕事を求める、ということはすなわち、「既得権にあずかりたい」「怠けたい」ということとほぼ同じ意味だ。
では、その人達が働かない分は誰が働くのか、当然非正規雇用、あるいは成果に汲々とするサラリーマンである。
もちろん、そういう人は少ないだろうが、ブームに乗っかった「自分さえ良ければ」という公務員が増えないことを祈るのみである。