自分は外交的です。自分は内向的です。明るいです。暗いです。人付き合いが得意です。苦手です。
自己評価は様々なところで聞かれるし、「性格診断」や「占い」などにも、そのようなコンテンツがあふれている。
そうして、様々な経験を経て、人は大人になるにつれておおまかに「自分のイメージする自分」が形となってくる。
しかし、この「自分に対するイメージ」は意外に厄介だ。
例えば採用の面接をしていると、次のような人に会う。
「なぜうちの会社に応募したのですか?」
「はい。私はつねづね「いろいろな会社の人に会える仕事をしたい」と思っていました。もちろん前の仕事もそれなりにやりがいはあったのですが、自分の性格として「常に新しいチャレンジがないと満足できない」ということがあり・・・」
人事評価でも同じことが多々ある。
「今年はどういったことに挑戦しますか?」
「はい。私はどちらかと言えば地道にやるのが得意なので・・・」
こういった「自己評価」は、「その人が思う自分自身のイメージ」を体現しているので、やりたいことや、今後の進路を決める上で一つの指針となる。それはそれで有用である。
しかし、時として、「自己評価」は自分の選択の幅を著しく狭めてしまう。
ピーター・ドラッカーは著作「プロフェッショナルの条件」にて次のように述べている。
”誰でも、自らの強みはについてはよくわかっていると思っている。だが、たいていは間違っている。わかっているのは、せいぜい弱みである。それさえ間違っていることが多い。”
余程のことがない限り、普通、人は自分の強みや弱みについて深く考察することはない。そして、「なんとなく好きだから」「なんとなく今までやってきたから」という理由で自身の可能性を定義するのである。これは非常にもったいないことだ。
キャリアをどのように積み上げるか、何の領域で一流を目指すのか、決定をすることは非常に難しい。しかし、少なくとも「自分のイメージ」を頼りにそれを決めるのは、時に大きな可能性の放棄となることがある。
では、「他人の評価」は当てになるのだろうか。残念ながらそうではない。他人の評価は多くの場合、「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という願望や要求を含む。それらは本人が持つ資質とは何ら関係がない。
多くの両親が「あなたはデキる子なんだから、良い学校に行って、良い会社に入って」と言うが、そこには多分に願望が含まれている。
多くの上司が「この仕事がうまく出来たのなら、これもできるはずだ」というが、そこには要求が含まれている。
そういった「意見」は一つの材料ではあるが、材料にすぎない。
それではどうするべきなのか。ピーター・ドラッカーは「フィードバック分析を行え」と述べる。
有り体に言えば、記録を残せ、それを見なおせ、ということだ。
多くのマネジメントシステムが提唱するように、「記録がなければ、パフォーマンスを測定することはできない」のである。
したがって、自分を知るには記録が必要だ。
古くは日記や手帳、最近ではブログからSNSまであらゆるものが記録として使えるのだ、人にアドバイスを求めるのも悪くないが、まずは日記をつけたり、ブログを書いてみてはどうだろうか。