インターネットは、人を平等にする。事実として、これほど多くの人が、自由に情報にアクセスできる時代というのは、人類の歴史上なかったことだ。かつて、本は非常に高価であり、そこにかかれている情報にアクセスできる人は非常に限られていた。アレキサンドリア図書館に出入りできるということは、それだけで名誉なことであったに違いない。
時は移りルネサンスの時代、グーテンベルクが活版印刷を発明したことで、世界は大きく変わった。誰にも本が手に入るようになったことで、人類の知は大きく飛躍した。見方によっては、人類史上最大の発明といっても良いくらいだろう。
「活版印刷はルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に重要な役割を果たし、現代知識経済と庶民への学習の普及の物質的基盤を作った」のである。人類は平等に向けて大きく前進したのである。
そして20世紀に出現したインターネットは、印刷と同じように、多くの人が自由に情報にアクセスすることを可能にした。
しかし、「情報の入手」が平等になればなるほど、不平等感が強まっていると感じるのは私だけだろうか。ネットは 見えなくていいものが見える。
例えば就職活動。かつては大企業には案内がきた一部の学生しか応募ができなかった。今はどうだろう。だれにでもインターネットを通じて応募の情報が手に入る。 誰でもチャンスがある と思える。
しかし現実は甘くない。「学歴不問」はウソなのだ。チャンスが有ると思わされた学生は、このような情報は必要だったのだろうか。
SNSには、インターネット上には、「成功者」の情報があふれている。その裏にいる何十倍もの「失敗者」、そのさらに何十倍もの「挑戦すらしていない人」はそれを見てどう思うのだろうか。「一億円以上稼ぐ新人作家」の話は誰にとって必要な情報なのだろうか。
七つの大罪の1つである「嫉妬」は、非常に恐ろしい感情である。克服は非常に難しい。強者は言うだろう「見なければいい」と。しかし、それは私にとっては「強者の奢り」に見える。
たしかに、知らないほうが幸せなこともある。 自分の心が弱いうちは、成功物語は心の毒だ。だが、強者は知っておいたほうがいい。弱者に配慮しなければ、必ず痛い思いをする。平等社会は嫉妬社会。嫉妬をマネジメントをできる強者が真の意味で世の中を良くすることができる。
でなければ、情報の平等は深刻な社会的対立を生むだろう。