ポール・クルーグマンという面白い経済学者がいる。彼は2008年にノーベル経済学賞を受賞した、経済学の権威の1人であるが、堅苦しい話よりも軽い話を好む。
彼のブログはウィットに富んでおり、読んでいて面白いものもたくさんある。
しかし、残念ながら読んでいて思うのは、「自分はなんて経済に関して無知なんだろう」ということだ。正直言うと、彼のコラムの半分も理解できれば良い方で、読んでいて全くわからないこともたくさんある。
しかし、多分それでいいのだ。自分がわかるものばかり読んでいても、何も得るものはない。
多分、「これがわからないから理解したい」という感情が、勉強の原動力になるのだ。
しかし、専門的な分野以外のことであれば、何となく分かることもある。
例えば、最近読んだコラムにこのようなものがある。
Knaves, Fools, and Quantitative Easing
(日本語訳)ポール・クルーグマン「罪深い行状――道義的にも知的にも」
”都合がわるくなってくると,議論に負けてる人たちは,だんだん礼節をなくしていくものだ.「自分とちがう意見をもってる連中はアホかチンピラだ」と信じ込んでる人たちから,ぼくもよく攻撃される.でも,前にも説明したように,これは主に選択バイアスの問題だ.道理のわかった人たちどうしで異なる意見を交わす場面にでくわすことは,あんまりない.なぜって,重要な問題を議論してても,片方の陣営が完全に道理がわかってないようなことがあまりにたくさんあるからだ.
当たり前だけど,ぼくの側と意見がちがっている相手でも,いい人はいる.他方で,経済論争に参加している面々には,ダメな人たちがいっぱいいる――といっても,その人たちが間違ってるって言いたいわけじゃない.その人たちは,不誠実な議論をしてるんだ.”(経済学101)
これを読んで、少し思い出したことがある。
私は前職、「議論することは良いことだ」と考えていた。議論で勝てば、白黒はっきりするし、相手を黙らせることができるからだ。
そして、議論することは大抵の場合さして難しくない。ホワイトボードに図を書き、双方の主張を記録し、争点をわかりやすくさえすれば、大抵の場合どちらが間違っているか、どちらが感情だけで物を言っているかは丸見えになる。
しかしサラリーマンを長くやっていると、議論に勝っても大して得をしない、ということがよくわかってきた。
それは、まさしくクルーグマンの言うとおり、「自分と違う意見を持っている連中はアホかチンピラだ」(こんなに極端でないにしろ)と思っている人が結構多いという事実による。
また、彼らの中には、「感情的に言いたいだけ」の人や、「わかっていて敢えて議論をかき回す人」、あるいは「わかっているが、立場的に正しいことが言えない人」など、様々な人も存在し、それぞれの立場から、問題をややこしくする。
でも、そういった人たちに議論で勝っても何も残らない。
クルーグマンは、「間違いを認めないのは、知的にも、道義的にも罪深い」と言うが、彼らにそれを期待するのは無理というものであろう。
というより、彼らは「決して間違わない」ので、そもそも議論ができない。
だから、私はもう仕事などで「議論はしない」と決めている。議論は不毛だし、大事なのは話すことではなく、実行することだ。最近ではハフィントン・ポストなどに投稿すると様々な人がいろいろな意見を付けてくる。中には誹謗中傷に近いものもある。
だが、それでいいのだ。むしろどんどん言えばいい。そういった人たちが思ったことも一つの真実であり、私の関知するところではない。それぞれがそれぞれの信じる道を行けば良い。行動だけが、結果を生むのだ。
そういうことを、クルーグマンのコラムを見て、思い出した。