イエスの生涯 (新潮文庫)久しぶりに、遠藤周作の「イエスの生涯」を読みなおした。全く宗教に興味のない私ですら、キリスト教がなぜ2000年以上も最も信仰を集めてきたのかがよく分かる本である。遠藤周作の語るイエスの姿は、現代においてもなお、輝きを失わないどころか、活き活きと我々に語りかけてくる。

 

この本で著者の遠藤周作が明らかにしたことは大きく2つあると考える。

 

  1. イエスはなぜキリスト教を創始したのか。何がイノベーションだったのか
  2. 弟子たちはイエスの生前は弱虫で、卑怯な、普通の人だった。その人達がなぜ、イエスの死後、自分の命も顧みない程の伝道師となったのか

 

いずれも、現代の組織、現代の人々の生き方に通じるテーマを持っている。

 

 

イエスはなぜキリスト教を創始したのか。何がイノベーションだったのか

キリスト教は、ユダヤ教から派生している。イエスはユダヤ教の掟の中で育ったが、後にユダヤ教を捨て、キリスト教を創始する。イエスは何を革新したのか。

 

著者が主張するキリスト教とユダヤ教のちがいは、神の姿にある。ユダヤ教では「厳しさと罰の神」、キリスト教では「慰めと愛の神」という点である。

 

ユダヤ教において神は、人に戒律を守らせ、罰を与え、戒める父親のような厳しい姿で描かれる。そこには一片の容赦もなく、神に反する者は即刻打ち倒され、地獄に落ちる。まさに「厳しさ、規律、掟、罰」の神である。

 

ところが、イエスはそれに対して疑問を持つ。「本当に我々が信じる神はそのような神なのだろうか?」

イエスは悩む。現実を見れば、病人や、子供をなくした母親、貧しい人々が溢れ、ユダヤ教が言う「神が人に罰をあたえている」ことが現実だと思える。

 

しかし、イエスは悟る。「人々に必要なのは、厳しさでも、掟でもなく、慰めと愛である」

貧困や病気そのものが辛いのではない。貧困や病気がもたらす、誰からも愛されず、気にもされず、慰めてもらえない状態が辛いのだ。

 

その時、キリスト教が創始されたといってもいいかもしれない。イエスは「慰めと愛の神」を説き始める。

「敵を愛せ、石を投げてくるもののために祈れ、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」は、ユダヤ教へのアンチテーゼだったのだ。

それまで、ユダヤ教の神は、「敵を滅ぼす」神だったのだから。

 

しかし、現実には「愛」は無力である。聖書には数々のイエスの奇跡が書かれているが、現実には奇跡など起きない。

当然である。イエスが説いたのは俗な言葉を使えば、「究極のポジティブシンキング」だった。

 

神は常にそばに居て、我々を憐れんでくれている。我々を慰めてくれている、と信じることが重要であって、現実に病気が治るかどうかは重要ではない。それがイエスの語る信仰の本質である。

 

イエスに群がる人々は、なんどもイエスに対し「奇跡を起こして、我々を救え」と頼んだだろう。それに対し著者は、「イエスが一番悩んだのは、神の愛を信じず、現実的な効果だけをもとめる民衆であった」としている。おそらく真実だろう。「究極のポジティブシンキング」など、誰にでもできることではない。

 

したがってイエスの考える「愛の神」を、本質的には弟子ですら、1人も理解していなかった。イエスは常に孤独だったのである。

 

ここまで見ると、イエスの教えは全くのムダで、「厳しさ、罰の神」の方が、まだマシに見える。現実的にはユダヤ教では「神の名のもとに結集し、武力による蜂起も辞さない」といった現実的な手段が使えるからである。

では、「慰めと愛の神」はなぜ世界の主流になったのだろう。これは2番目に問題提起されている、弟子たちが変わった理由と深く関わりがある。

 

 

弟子たちはなぜ、自分の命も顧みないほどの伝道師となったのか

 イエスは弟子たち、民衆が自分の教えを何一つ理解していないことに深く悩んでいた。弟子や民衆は、有り体に言えば「イエスが武力蜂起」をしてくれることを望んでいたのである。それは、イエスの意図とは全く逆の考え方だった。

 

ここで、イエスは「行動で示す」ということをした。すなわち、「敵に捕らえられ」「非業の死を遂げ」、なおかつ「その敵を許す」ことで弟子や民衆にそれを示そうとしたのである。

 

この後はご存知のとおり、イエスは自分の死を予言した後、エルサレムに出向いて捕らえられ、十字架に磔となって処刑された。その際に弟子たちは、聖書にある通り、「全員逃げた」「裏切った」のである。

にもかかわらず、イエスは「彼らをお許し下さい」と述べただけで、恨み節の一つもなかったのである。

 

この行動により、はじめて弟子たちはイエスの言っていた事の本質を理解した。人間は言葉によって変わるのではなく、上に立つ人物の行動によって変わる。弟子たちはイエスを裏切った自分たちを激しく恥じ、後悔した。そして、イエスが語った「慰めと、愛の神の存在」を実際に感じたのである。

 

それが、後の弟子たちの布教活動の原動力となった。弟子たちの中には迫害され、非業の死を遂げた者も少なくない。しかし、彼らはやり遂げた。

 

 

キリスト教のイノベーションの本質は、「掟と罰」から「慰めと愛」への転換

人に覚悟を決めさせるのは、戒律や言葉ではなく、行動と自己犠牲

遠藤周作が述べたかったことは、そういうことなのだろう。