前職で営業活動をしていたとき、二言目には「数字を出せ」という方が結構いた。
例えば、社員教育に対する費用対効果、広告に対する費用対効果、webサイトのリニューアルの効果など、企業の様々な試みに対して、とにかく数値化されたエビデンスを要求する。
もちろん、私は営業だったので求められるような数字を出せるよう、出来るだけ努力し、そういった方々へ数字を提供した。費用対効果が数値化でき、計測が可能なものはできるだけ計測して客観的に判断する。それは重要な仕事であった。
しかし、私が疑問を持ったことは、「エビデンスを出せ」というにもかかわらず、「自分の意見がない」方だ。
例えば、「社員教育をしたい」という会社があったとする。私が「なぜ社員教育が必要なのですか?」と聞くと、「自発的に動ける人を増やしたい」という。
そして、こちらに「自発的に動けるようになった、という数字かデータが有ればくれ」と依頼するのだ。
しかし、そういう依頼が一番困る。「そもそも、自発的に動けるとはどういうことか」が明確になっていないばかりか、なんのデータを必要としているのかが全くわからない。
「目的によって、取るべきデータがちがいます」といっても、「データがなければ実施できない」との一点張りだ。
もちろん彼らの言っていることは理解できる。おそらくその上司がそのような要求をしてきたり、社内で意見を通すために数値が必要とされているのだろう。また、それまでの経験から、「数値」と言うものへの信用が形成されたのかもしれない。
しかし、多くの人が言うように、ビジネスも、科学も「数字は後づけ」である。
ピーター・ドラッカーはその著書「マネジメント」の中でこう述べている。
”人は意見からスタートせざるを得ない。最初から事実を探すことは好ましいことではない。既に決めている結論を裏付ける事実を探すだけとなる。
見つけたい事実を探せないものはいない。
統計を知るものはこのことを知っており、したがって数字を信じない。かれは数字を見つけた者を知っているために、あるいは数字を見つけた者を知らないために、数字に疑いを持つ。
現実に照らして意見を検証するための唯一厳格な方法は、まず初めに意見があること。また、そうでならないことを明確に認識することである。こうした認識があって初めて、仮説からスタートしていることを忘れずにすむ。
意思決定も、科学と同じように仮説が唯一のスタート地点である。我々は仮説をどう扱うかを知っている。論ずべきものではなく、検証すべきものである。”
数字の前にその人の「意見」が必要なのである。そして、その意見を検証するために、「数字」を必要とする。
ところが、「エビデンスを出せ」と要求している人は、その人自身には意見がなく、「数字が欲しい」という。あべこべである。
統計の手法云々のまえに、そういった数字の扱い方に関するリテラシー、というものも働く人にとって必要なのだろうと思う。