「生活するためだけ」だろうか。それであれば仕事の内容はなんでもいい。できれば楽で給料のいい仕事が良いと思っているに違いない。だが、多くの人は自分の職業の選択に関して、選り好みをする。
「就職できない」と嘆く学生に対して、「選り好みをするな」と叱咤する大人は多い。しかし、「金さえ貰えれば何でもいい」という学生は殆どいない。大人はそれを「ワガママ」という。
だが、「まともなところに就職できないくらいなら、働きたくない」という若者は、果たして本当に「ワガママ」を言っているのだろうか?
「職業に貴賎なし」という。しかし、ピーター・ドラッカーの分析によれば、現代社会は「職業」がすなわち「社会的地位」を示すという。すなわち、給料の安い、誰でもできる仕事を行う人は「社会的地位が低く」、希少性のある才能や知識を生かした稼げる仕事に付く人は、「社会的地位が高い」のである。
よって、低い社会的地位に格付けされるくらいなら、まだ社会に出ておらず、格付けされていない身分である「学生」や、「夢を追うアルバイト」にとどまる、という選択をする人が増えるのもまたしかりである。
もちろん、そう考えない人もいる。しかし、仕事に「やりがい」や「かっこ良さ」を求める人を誰が非難できよう。誰でも多かれ少なかれ、そういったおおっぴらに人には言えない感覚を持っているのではないだろうか。
しかし、現実は更に厳しい。一旦仕事を始めれば、「かっこ良さ」であるとか、「見栄えの良さ」などは、どうでも良くなる。有名企業に競争を勝ち抜いて就職した学生も、「現実と期待のギャップ」に愕然とする。遅かれ早かれ、仕事に対する「思い」が問題にされる時期が来る。
だから、会社を選ぶ時は絶対に、「世間体の良さ」であるとか、「有名企業」であるとか、そのような判断基準で選んではいけない。もちろん、「給料の良さ」も同じ事だ。人生は長い。40年から50年、働かなくてはいけないのだから。
では、どのように選ぶのか。その会社に勤めている自分を思い浮かべてみよう。その時、お客さん、同僚、家族などにこう聞かれたとする。
「あなたは、なぜ今の仕事をしているのですか?」
どんな答えでもいい。
ただ、その仕事を選んでいいかどうかの判断基準は「自分の言葉で語れるかどうか」だ。もちろん、仕事をやっていく中でそれは変化するかもしれない。しかし、自分の言葉で語れるくらいに考えた結果であれば、後悔はしないだろう。