過激な意見には力がある。それが良いことなのかどうは別として。例えば、某有名ブロガーが、
”一番つまらないのは、「Aともいえるが、Bともいえる」みたいな意見です。
それは、そもそも“意見”なのか? って感じです。だって、何一つ考えなくても言えるし、5歳の子でも言えるじゃん。
「大企業が合う人もいるし、合わない人もいる」
「学校が役にたつかどうかは、人によって違う」
そりゃーそうでしょ。
それって、「未来は明るいかもしれないが、暗いかもしれない」ってのと同じじゃん。もっと言えば「犯人は女かもしれないが、男かもしれない」とも同じ。事実上、何も言ってないに等しい。そんなことなら 1秒も考えなくてもわかる。てか、それって言う意味ある??”
という意見を表明しているが、賛同する人は結構多いのではないだろうか。要は、わかりやすく、竹を割ったような明快な意見が支持されるということだ。
これは、元首相の小泉氏の得意技でもあり、「XXをぶっ壊せ」というような物言いに代表される。
当然、意見としてはそのほうが面白い。読者、視聴者は「極端だなー」と思いながらも、「煮え切らない意見をいうよりは良い」と思う。これは、テレビでもよく使われる手法である。
更には、「ブログでアクセスを集めるには」といったような記事でも、よくあるアドバイスとして、「言い切りなさい」という事もある。
さて、このような現代社会の状況に対して、ドラッカーは鋭い批評を加えている。これらは「多元社会」の生み出す弊害だという。
これは、「共産党」が議席数をのばしたり、各先進国で極右勢力が支持されている状況とも関係がある。
”実のところ、今日の若者が恐れているのは組織社会がもたらした意思決定の重荷である。つい昨日までは、人生は生まれた時に決まっていたにも関わらず、今日突然、人生の選択に問題が生じた。若者は操られることに抵抗する。しかし実は彼らが最も恐れるものが、意思決定の重荷である。”
”ガルブルイスが20年前に指摘したように、今日の多元社会は無数の拮抗する勢力からなる社会である。したがって多元社会の本当の危険は、特定の集団の支配ではなく、拮抗する勢力間の手詰まりにある。この組織間の手詰まりの中にあって、ひとりひとりの人間は苦しむ。”
手詰まりを回避し、意思決定を行うには、「極端な意見」を必要とする。自分自身のポジショニングを行うとともに、今後の指針が得られるからである。
「ぶっ壊せ」を支持する多くの人々は本当にそれがぶっ壊れることを望んでいるわけではない。手詰まりを回避したいだけである。
また、極端な意見を表明する側にも、メリットが有る。多元社会では自分自身のポジションを明確にするほど、強力な力を得ることができる。
目的を明確化すればするほど、はっきりとした支持を取り付けることができるからだ。「いろいろなことを少しずつやる」組織や個人は、賛同を集めることができない。
したがって、多少煽りとも取れる意見を表明することは、他との差別化を明確にするための一つの手段である。
このような理由から、TV、雑誌、インターネットなど媒体を問わず、「極論」がますます好まれるようになっているのである。