子供が1人で本を呼んでいる。呼んでいる本はミヒャエル・エンデの「モモ」だ。熱心に何時間も呼んでいる。
一方で子供が1人でテレビを見ている。よくあるお笑い番組だ。熱心に何時間も見ている。
この状況を見て、「どちらがより子供にとって望ましい楽しみ方か」と問われた時、前者をあげる人のほうが多いことは想像に難くない。
場合によっては後者のような状況に眉を顰める親は多いだろう。
では、大人はどうだろう。
ゴールデンウィーク中に見聞を広めるため海外旅行に行くのと、一日じゅうパチンコをやっているのとは、どちらがより「質が高い楽しみ方」といえるだろう。
「ベア・バイティング」という見世物がかつて存在した。杭につないだ熊に犬をけしかける見世物だ。ピューリタン達はこの見世物を禁止したが、これは熊に与える苦痛ではなく、見物人が感じる快楽を問題視したからだという。
いまでも闘犬や闘鶏を行う人がいるが、一部の地域では裁判所がそれを禁じることもあるように、このような楽しみ方は「社会的問題」となっている。
もちろん何を楽しいと思うかは本人の勝手である。「余計なお世話」という方もいるだろう。しかし、「質の高い楽しみ」と「質の低い楽しみ」の区別はどこかに存在するようにも見える。
こういった時、人々は何を根拠に「質の高さ、低さ」を判断しているのだろう。
ハーバード大学のマイケル・サンデル氏の著作「これからの「正義」の話をしよう」には、それについての議論がある。
功利主義者であり、「自由市場」を唱える人々にとっての論拠となっている人物の1人、ジェレミー・ベンサムは「快楽の質に、高いも低いもない」との立場をとった。拡大解釈すれば、「快楽の質は、市場が決める」と言ってもよい。
この考え方に従えば、サイゼリヤの経営者ではないが、「売れるものが良いもの」なのだ。
しかし、功利主義者の後継であるジョン・スチュワート・ミルはベンサムとは異なる立場を取る。
「質の高い快楽と、低い快楽は区別できる。欲求の大きさだけでなく、その質も評価できる」
と彼は考えた。
ミルは言う。
「ある種の快楽は、他の快楽よりも望ましく、価値が高い」
ミルの検証法はこうだ。
「2つの快楽のうち、両方を経験した人の全部もしくは大部分が、道徳的義務感に関係なくハッキリと選ぶものがあれば、そのほうが望ましい快楽である」
しかし、これには反論もある。
我々は、しばしばプラトンを読んだり、オペラに行ったりするよりは、ソファにくつろいでテレビのホームコメディを見るほうを好むことがないだろうか。そして、こうした気楽な行動を、大した価値はないと思いつつ選んでしまうこともあるのではないだろうか。
マイケル・サンデル氏はこれについて実験を行った。
プロレスの試合、シェークスピアの「ハムレット」、ザ・シンプソンズ(テレビアニメ)のうち、見てどれが一番面白かったか、そして、どれが一番価値があるかという質問を学生にしたのだ。
最も面白い、ということに最多の票を集めるのは「ザ・シンプソンズ」で、二位がシェークスピアだ。しかし、最も価値があるという質問に対しては、圧倒的に「シェークスピア」と回答する学生が多い。
従って、ミルの主張することは正しくない。何が高貴で、何が卑しいかを決めるのは人間の欲求ではない。その基準は我々の願望や欲求とは無関係な、人間の尊厳という理念から引き出されている、ということだ。
われわれが「ハムレット」を偉大な芸術だと判断するのは、質の低い娯楽よりも「ハムレット」の方が好きだからではなく、この作品が我々の最高の能力に訴え、我々をより豊かな人間にしてくれるからなのだ。
会社は時として、「より多くの人に使ってもらえるか」「より儲かるか」を事業の基準としがちである。しかし、そこではたらく人々の考え方はそうとは限らない。「よりよい人間を作るか」「よりよい世の中を作るか」という基準で事業を選択するということだって、ありえるのだ。
もちろん利益が出なくては続けることは出来ないが。