これは、ある学生さんが書いた小説の冒頭部分だ。少し読んでみて欲しい。そして、この学生さんに文才があるかどうか、吟味していただきたい。小説の冒頭は読者を引きつけるための大事な部分であり、作者の力量が最も問われるところの一つだ。
”死者たちは、濃褐色の駅に浸って、腕を絡み合い、頭を押し付けあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。
彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴染みにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向かって凝縮しながら、しかし執拗に躰を擦り付け合っている。
彼らの躰は殆ど認めることが出来ないほどかすかに浮腫を持ち、それが彼らの瞼を固く閉じた顔を豊かにしている。
揮発性の臭気が激しく立ち上り、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘着く空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に満ちる。
死者たちは、厚ぼったく重い声で囁きつづけ、それらの数々の声は交じり合って聞きとりにくい。時どき、ひっそりして、彼らの全てが黙りこみ、それからただちに、ざわめきが回復する。
ざわめきは苛立たしい緩慢さで盛上がり、低まり、また急にひっそりする。死者たちの一人が、ゆっくり躰を回転させ、肩から液の深みに沈みこんで行く。硬直した腕だけが暫く駅の表見から差出されてい、それから再び彼は静かに浮かび上がってくる。”
さて、これを読んで正直にどう思っただろうか?続きを読みたいと思っただろうか?それとも、「うーん…」と、思っただろうか。
絵画や小説、研究、プログラミング、何をするにしても、その分野には「一流」と呼ばれる人々がいる。しかし、どうして彼らは「一流」と呼ばれるのようになったのだろうか。
彼らはある日突然、「一流」になったわけではない。また、はじめから多くの人に支持されたわけでもない。なぜなら、「多くの人」は何が一流であるか、判断をする術を持たないからだ。
わかりやすい例を挙げよう。1000メートルを2分11秒で走った。これはすごいことだろうか?それとも大したことないのだろうか?陸上競技の専門家であれば、1000メートル走の世界記録だということを知っているので、「とんでもない記録」ということがわかる。しかし、素人の私にはピンと来ない。
素人の私は、オリンピックで彼らが競争しているのを見て初めて、「すごい人だ」と知ることができる。
冒頭に上げた小説はどうだろうか。実は、この小説はノーベル文学賞作家である大江健三郎氏のデビュー作、「死者の奢り」の冒頭部分だ。
正直言えば、私にはこの文章の素晴らしさや、作家の力量はよくわからない。しかし、「一流の」編集者であれば読んですぐに「普通の文章ではない」ことが分かるという。
「ノーベル文学賞」という権威によって、私は「よく出来た文章なのだ」と知ることができる。
したがって、我々は常に「権威」を必要とする。権威がなければ、その質を全て、私が吟味しなければならない。
そんな時間はないし、それをやる手間を考えれば権威に従ったほうがマシだ。
しかし、「権威」の利用には多くの人が感じるように、注意が必要だ。
ご存知のように、「権威」が差し出すものには虚構や、利害、意図的な操作が含まれる場合が往々にして存在する。だから、我々はその「権威」がどのようなものなのかを慎重に見極めなくてはならない。
webには様々な権威が存在する。極端な話、Amazonのランキングや、食べログの「ベストレビュアー」も権威の一つだ。もちろんマスメディアも言うに及ばずだ。そして、日々そういった権威は増殖しているし、「頭の良い」人々がそういった権威を創りだそうとしている。
我々はそういった権威を見る目を持たなくてはならない。そしてそれが「メディアリテラシー」というものなのだろう。