上司の持たなければならない資質の一つとして、「厳しさ」を重要視する人は多い。
- 「厳しさ」は人を育てる
- 「厳しさ」はやる気を引き出す
- 「厳しさ」は尊敬を集める
と言った具合だ。
ただ、「厳しさ」はまちがって捕らえられやすい。
動画を見ると、十回以上、バレー部のコーチが選手を平手打ちしている。これをみて、「普通じゃないか」と思った人は、「厳しさ」を勘違いしている。
体罰や恐怖によるマネジメントを肯定する側の論理は以下の様なものである。
- 本気で指導しているから、怒るのだ
- 本気であることをわからせるためには、手をあげることもやむなしである
- 理不尽なことに耐えることも重要だ
いずれも間違っている。こういった指導者は、生徒や部下にに責任転嫁をしている。
もちろん、指導者も人間である。「自分は本気なのに、なぜわかってくれないのだ」と、ムカッとくることも多いだろう。しかし、それを暴力や怒りとして生徒や部下にぶつけることは、極めて動物的な衝動であり、人としての振る舞いではない。
- 怒らずに生徒にわかってもらうにはどうしたらいいか?
- 暴力や恐怖を使わずに、生徒にわかってもらうにはどうしたらいいか?
- 理不尽は世の中にたくさんある。しかし、それを私が生徒にやってはいけない。
と、常に追求する指導者であれば、軽々しく暴力を振るったりはしない。
一流選手が昔を振り返り、「体罰も否定しない」といったコメントを残すことがある。しかし、それは一流の選手だが、一流の監督としての言葉ではない。監督は非凡な才能を持つ人だけを相手にするわけには行かないからだ。
では、どう振る舞うことが望ましいのか。ピーター・ドラッカーによれば、
”真に厳しい上司、すなわち一流の人をつくる上司は、部下がよく出来るはずのことから考え、次にその部下が本当にそれを行うことを要求する。”
従って、「その人が組織に対してどのような貢献がしたいのか、できるのか」から出発して組織を構築する。出来ないことを延々と要求したりすることはない。
「アイツは意欲も何もないから、厳しくしないといけない」
という上司も数多い。しかし、本質的に意欲のない人などいない。人は「誰かの役に立ちたい」と皆思っている。「部下の意欲がない」と思うならば、まずはコーチ、上司たる自分から変わらなければいけない事がほとんどである。
すなわち、「良くできることからしっかりやらせる」ことが厳しさである。
さらに、
「真に厳しい上司は公正である」事が求められる。従って、
”一流のチームを作る者は、直接の同僚や部下とは親しくしないということである。好き嫌いではなく、何をできるかで人を選ぶということは、調和ではなく成果を求めるということである。そのため彼らは、仕事上知会人間とは距離を置く。
しばしば言われているように、リンカーンはスタントン陸軍長官その他との親密な関係を絶ってから成果をあげるようになった”
すなわち、「友情と仕事とは切り離して考える」ことも、厳しさである。
「真に厳しい上司」は思うように動かない部下に怒らず、おもねらず、能力を見極め、適切な仕事を与え、成果を中心において貢献させる。
そういった地味な仕事をひたすら続ける人である。