ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)この時期、就職活動が佳境に入ってくると、学生から、「自分の価値がわからなくなりました」という相談をもらう。また、「就職活動に失敗し、自分に価値がないと判断し」自ら命を断つという極端な選択をする学生も中には存在する。

はたして、「人の価値」は何によって決定されるのだろうか。

 

商品の価値は、顧客によって決定される。当たり前だ。お金を出すか、出さないかの決定権は顧客にある。

自分を「商品」(だと思っている人はあまりいないと思うが)とみなせば、自分を買ってくれる人、すなわち会社においては雇い主、あるいは顧客となろう。

 

例えば、転職サイトでよく「自分の市場価値は?」という文言を見かけることが多いが、それは「自分を商品だと思いなさい」ということと同義だ。

また、「婚活」などを行っている方々は、自分の属性やパラメータをシステムに入力する際に、「なんかなあ」と悲しくなる方もいると聞く。これは、「他者へ自分を商品として売り込まなければならない」という事への悲しみだろう。

 

しかし、個人的には「人間の労働力やスペックを売り買いする市場」は「人間の価値」の一部分を決めてはいるが、特に人間の価値を決めているわけではないと感じる。これも当たり前の感覚だろう。

 

では、「自分の価値」は何によって決定されるか。

 

それに対して、「本質的に人に価値など無い」と言い切ったのが、フリードリヒ・ニーチェである。

彼はその著作、「ツァラトゥストラ」において、こう書いている。

 

”人間において、何が偉大かといえば、それは人間が橋であって、自己目的ではないということだ。人間においてどういう点が愛されうるかといえば、それは人間が渡っていく過渡であり、没落だということだ。”

 

人間の価値は、「業績」や、「身体的なスペック」などの「ストック」ではなく、「何をいま行っているか」、あるいは、「どのような心的過程を経たか」という、「フロー」そのもの、変化の過程であるという考え方である。

これを良しとするならば、いつ、どのようなことになっても人は価値があることをなし得るということになる。

 

過去に思い悩む必要はない。これから何をやるかだ。間違いない。